島倉山館(いわき市泉町本谷)

泉から県道20号線を北上し、泉トンネルを過ぎると谷津があり、その北側に東西に長い山、島倉山があり、県道はその山の間の切通しのような場所を通る。
この東西の山が城址である。このうち、東側の山が主郭であり、西側の山は出城であったらしい。
この地は、岩城氏の支族、岩崎氏が岩城氏によって滅された場所という。岩崎氏は岩城隆行の三男隆久が起こした家であり、この付近を領し、かなりの勢力を持っていたという。
岩崎氏の勢力に岩城氏は脅威を抱き、応永17年(1410)、岩城氏6代岩崎隆綱が攻撃を加え、岩崎氏を滅亡させたという。
なお、岩崎氏は再興され、大館城を本拠にするが、後岩崎氏も文安4年(1447)岩城氏に滅ぼされる。
山は500m四方、比高も80mある堂々としており、岩城氏が脅威を覚えるほどの勢力があった岩崎氏の本拠だったというのでそれなりの遺構はあるかと思った。しかし、「あれ?」と思うほど遺構は、ほとんど何もなかった。
北東端の麓に薬師堂があり、そこから山に登る道がある。
山上の遺構に比べるとこの登り道の方が、いかにも登城路らしい感じであった。
さぞかし、大規模な堀切や土塁があるのではないかとの期待を持たせる・・・。
頂上には三角点があるが、極めて狭い
スペースしかない。
山頂から20m東に堀切があるが、これが
唯一の城郭遺構と思える部分。

しかし、そんなものはなかった。
まるでこれでは南北朝の城である。
山上は段々の平坦地がいくつかあるだけで、三角点のある最高箇所が本郭であろうが、15m×10mほどの平坦地に過ぎない。
その東下に堀切があっただけである。
これでは物見の砦である。
勾配が結構急であるのでその点は要害性は認められるが、結局、この城は物見と避難用のものだったようである。
この城に立て篭もって長期の戦闘はとても出来ないであろう。
山の南の山ろくが「堀ノ内」という地名でありここに居館があったと思われる。
居館主体である広野町の高倉城のような城であったものと思われる。 


昼野館(いわき市渡辺町昼野)

泉方面から陸前浜街道(県道56号)を岡部城方面に北上すると2qほどで昼野地区に入る。
道の左手に八幡神社が見えてくる。
この裏手一帯が館跡らしいが、北から南に延びる段々状態の台地があるだけである。
南側と西側、北側は谷であるが、東側のみが県道が走る低地である。この台地上の平坦地が居館の場所かもしれない。
詰めの城が北西の山に有りそうであるが、藪状態であり突入は断念した。
南北朝期、大友内匠七郎が居館したが、滝刑部、篠小田式部と争い没落したというので戦国期には既に使われていなかったかもしれない。
県道脇にある八幡神社。この裏手一帯が館跡である。 神社裏手は段々になっているだけで
ある。

滝尻城(いわき市泉町)
神前山館の北500mの平地にある。神前山館との間に釜戸川がある。
この城は全くノーマークであった。
城の付近を走行していたら神社があり、土塁のようなものが見えたため車を止め神社の入口を見たら「滝尻城」の碑があった。
城址は諏訪神社の境内になっており、北側に高さ2m位の土塁が40mほど残っている。
土塁の北側(外側)は駐車場になっているが、ここは明らかに堀跡である。
80m四方ほどの広さを持つ方形の館であったようであり、おそらく周囲を土塁と堀が覆っていたようである。
境内に池があるが、これは堀ではなく、庭園の一部であったと思われる。
岩城判官政氏の居城であったという。時代は鎌倉時代らしい。この人物が「安寿と厨子王」に登場する人物らしい。
この物語は北陸が舞台だったと思うが、この地とどう係るのか良く分からない。
南北朝期の建武4年(1337)南朝の菊田庄司小山駿河権守朝郷がこの城に拠って戦ったが、石川一族の松河四郎太郎、草野四郎次郎等に攻められ落城したという。
その後、城がどうなったのかは分からないが、土塁等も残っているので居館として使われていた可能性もある。

諏訪神社入口に建つ城址碑。後ろに土塁
が見える。その左側は堀跡であろう。
神社入口の西側にある土塁は広く、櫓台で
はなかっただろうか?
境内には池があるが、これは堀ではないで
あろう。

神山前館(いわき市泉町下川)
国道6号を勿来・植田方面から北上し、泉・小名浜地区に入ると藤原川の支流、釜戸川にかかる橋を渡る。
この橋の南側に独立した山がある。
この山が神前山館である。標高は50m山の大きさは300m×150m、下の標高は5m程度であるので比高は45mである。
大した比高はないが、周囲が全くの平地であるので結構高く見え、堂々とした山である。
国道6号の西側であり簡単に行けるかと思ったら車が入れないようになっている。
このため、西側に迂回して滝尻城跡(諏訪神社)前の交差点を東に入って山の麓にたどり着く。
このような独立した山の上には大体、神社がある。案の定、出羽神社が建っている。
館の名前が「神山」と大層なものであるが、これはこの山の東側の地区の字名だそうである。
昔の人はこの山に神を見たのかもしれない。
神社があるため、城郭遺構はかなり改変を受けているようではあるが、それでも若干残っている。

山は北東から南西に延びた形であるため、尾根式の城の形態を採る。北東側の麓から延びる参道沿い、山の先端部近くには高い櫓台のような遺構があり、その裏側(本殿側、西側)が堀切になっており、横堀となって北側を覆っている。
この山は北側が若干勾配が緩いので攻撃を受けやすい北側に横堀をまわしたようである。
この理にかなったコンセプトは勿来の伊勢山城の横堀と同じである。
本殿までは段郭があるだけであり、本殿の地は30m×15mの平坦地である。
その南西は切岸になっており、曲輪が3段ほど認められる。
歴史等は分からないが、小名浜を監視するための岩城氏の城であったのであろう。
北東から登る参道から本殿部を見る。曲輪
が段々になっている。
参道北側の横堀。笹薮で良く分からん。 南西側から見た館のある山。結構目立つ。

西郷館(いわき市常磐西郷町)

常磐線泉駅と湯本駅を直線で結んだちょうど真ん中、双方の駅から2.5qの常磐西郷町の最南端の藤原川の支流(名前分からず。)の北にある独立丘上にある。
この川が天然の水堀となっている。
この岡は西の岡部城方面から川に沿って延びており、岡部城からは北東1qという至近距離である。
この岡上に能満寺という名刹があるが、ここを目指せば間違いない。
館跡はこの寺のある岡の東側の岡の上である。この岡は標高31mあり、低地部が標高5mほどであるので25mほどの比高がある。能満寺との間は道路が通る切通しになっているので、ほぼ独立した岡全体が館跡と言えるだろう。
館は東西100m、南北50mほどであり、岡の上の主郭は東西60m、南北20mほどの広さがあり、結構平坦である。現在は畑になっている。眺めは良いが風が非常にきつい。
北側に土塁が一部残っている。風避け土塁のように思える。
主郭の南側2m下に帯曲輪があり、西側に虎口があったようであり、曲輪が段々に2つ明瞭に残る。
館跡の北側もテーブル状に段々になり、切岸になっているのでここに居館があったのかもしれない。
館の来歴等については資料がなく分からない。
この能満寺の東側、道を隔てた岡が館址である。 能満寺駐車場から館跡の岡を見る。 館の主郭部は平坦で畑である。北側に土塁の残痕がある。 館の西側には曲輪が二段きれいに残っている。

伊勢山城(いわき市勿来)
常磐線勿来駅の北東に独立した山がある。
山の直径は500mほどであるが、直ぐ東700mで太平洋である。
標高は36mほどであるが、平地はほぼ標高0mであるので非常に大きく見える。
南北2つのピークがあるが、主郭部は北側のピークにある伊勢両宮神社がある地である。
神社へは国道6号沿いからゴルフ練習場に行く道があり、そこから神社前まで未舗装の道が延び車で神社前の駐車場まで行くことができる。
駐車場から直ぐに遺構が見える。

社殿は階段を登った上にあるが、その階段の左右に豪快な横堀が延びる。
幅は20mほどあり、社殿のある主郭部からは10mほどの深さがある。東側には櫓台がある。
この堀の東側は崖部で竪堀となり、西側は堀切に合流し総延長は100m程度である。
城のある山の北側、東側は急勾配であるため、横堀は勾配の緩い南側のみに築かれる。

堀の南に駐車場があるが、ここはもともと馬場のような場所であったのか、谷津を埋め立て造成したのかは分からない。
ここから参道が延びているが、少なくとも曲輪Vの南側土塁は参道を付けるため削られているようである。
本来は横堀の底が堀底道であり、曲輪VとWの間の堀切を通って曲輪V内に入ったのではないかと思われる。
上の写真は北西側から撮影した城址である。2つの山からなる状態がよく分かるであろう。正面の山が主郭部であり、右側の山に出城があった。山の左下には蛭田川が流れ、港があったと思われる。
神社社殿は曲輪UとVにあり、その間には堀があったようである。(今の参道はこの堀跡と思われる場所に出る。)
東に向かうと曲輪Uであるが、ここは50m四方ほどの大きさであるが、段々になっている。
その東側に一段と高い方20mほどの場所があり、ここが城内最高地点であり、この櫓台のある曲輪Tが本郭ではなかったかと思われる。
曲輪U側には堀の跡がある。この櫓台の東側には長さ50mほどの曲輪がある。
周囲は急斜面である。一方、曲輪VとWの間には幅10m、深さ5mの見事な堀切がある。
この堀底はそのまま、南側の横堀の堀底につながる。横堀は曲輪Wの南を覆ってはおらず、曲輪W側から竪土塁が延びている。
曲輪Wは藪がすさまじいが、南側に土塁を持つ腰曲輪がある。
駐車場の南の山には出城があったようであり、段郭が見られるが、それほどはっきりしたものではない。
この城は「鬼岡館」とも言う。平安時代、前九年の役に出陣した源義家が滞在したとも伝えられる。
また、南北朝期、北畠顕信が奥羽に下向する際ここにしばらく滞在し、宇津峰城経由で霊山城に向かったともいう。
しかし、今に残る遺構は完全に戦国期のものである。 横堀があるので戦国後期のものである。おそらく岩城氏の手により整備されたのではないかと思われる。
この地のすぐ南は佐竹氏の勢力下の常陸国である。この城は海岸沿いの街道筋を守る境目の城ではなかったかと思われる。

また、直ぐ北を流れる蛭田川は入り江になっていたようであり、北側に港があったらしい。
このため、海運を管理していたのではないかと思われる。
主郭部に建つ伊勢両宮神社は、文禄年間に窪田山城守家盛の叔父道通が伊勢より勧請したものという。

神社の参道である。石灯楼の両側が横堀手前の土塁である。 参道を上がると曲輪U、V間の堀跡に出る。写真は曲輪U側を見たもの。 曲輪Vから南側の横堀を見る。深さは10mほどあるが、藪で分からん。 参道の途中から見た横堀。右が主郭部の切岸。
曲輪Tの櫓台を曲輪Uから見る。手前側に堀跡が見える。 曲輪U、V間の堀跡から見た曲輪V. 曲輪V、W間の堀切。深さ5mほど。30mの長さがある。 南出城から見た主郭部。道路の先が駐車場になっている。

岡部城(いわき市渡辺町泉田)

岩城領内にある佐竹支族、岡部氏の城である。
城は、常磐線泉駅の北西2q、泉駅とスパリゾートハワイアンズのちょうど中間地点からやや泉駅よりにある。
西側を陸前浜街道(県道56号)が通っているので街道を抑える城でもある。
鎌倉時代、岡部一族の祖重綱が築いた城という。
岡部重綱は佐竹4代義重(戦国時代の名将義重とは別人)の4男で、鎌倉幕府の宮将軍宗尊親王に仕えた後、この地に入り、築城したという。
佐竹氏の領地がこの付近にあり、代官として赴任したものだろうか。それとも功労により領地をこの地に得たものであろうか。
時は文永4年(1267)という。築城した山の名を岡部山というので、以後、岡部氏を称し、代々居城した。
岡部氏は国人領主として戦国時代は岩城氏に従属し、行動をともにするが、佐竹一族ということもあったので佐竹氏とも深い関係を持っていたようである。
佐竹氏の南奥州侵攻では岡部一族も参戦しており、11代岡部武蔵守重忠は天正16年(1588)、佐竹義重に従い伊達政宗と戦うために須賀川に出陣している。
関ヶ原の戦前夜には、当主岡部重忠は、佐竹義宣の意向を受けてだろうか車丹波らとともに上杉景勝の下に秘密裡に援軍として派遣されている。
関ヶ原敗戦後、岡部重忠は帰国しようとするが、伊達政宗配下の窪田十郎宗久に阻止され、岡部城には戻れず、佐竹氏を頼る。
佐竹氏は多賀大久保郷(日立市)に岡部氏を保護する。
佐竹氏が秋田に移ると岡部氏の一部も同行したらしいが、ほとんどは日立市付近やこの地で帰農する。
今も岡部城付近や日立市には岡部姓は多く、各方面で活躍している。
その岡部城であるが、泉田の中部工業団地の東側の標高70m山にある。
比高は55mである。山は径400mのほぼ独立した山である。山城ではあるが、尾根式城郭ではなく、輪郭式構造を持つ城である。
山頂部が結構、広く、平坦であり、尾根が四方に延びる感じの山である。
斜面の傾斜は急であり、谷は深い。ちょうど高圧線の鉄塔が建っているが、そこもすでに城域である。
工業団地の東側は造成のため、崖になっているが、これにより城域も少し破壊されているようである。
城へは工業団地を過ぎ、少し東側の田舎道から入る。
岩盤切通しの道を上がると、一見して登城路と思えるような道が山に続いているのが見える。
この付近には路上駐車可能なスペースがある。
ここの横に車道があり、上に墓地がある。どうもここも城域の一部のようである。
墓地途中の平場には北側に明瞭に土塁がある。墓地の裏(西側)は堀切のようになっている。
尾根が南側に続いている。南側斜面には腰曲輪が2段あり、堀切と土塁を過ぎると主郭部である。
主郭部は藪の中である。構造は段郭を頂上部の本郭の周囲に展開しただけの単純構造である。主郭部は1辺100mの三角形をしている。
切岸の高さも2m程度しかない。本郭に石の社があるが、道はここまで。
本郭の北側には土塁を持つ虎口がある。南側の腰曲輪にはちゃんと道が付いており、ここを南に行くと本郭の南端下に出る。
本郭の櫓台跡が6mの高さを持ってそびえる。
そこから南に尾根が延び、尾根上に進行阻止用の土塁があり、その南にピークがある。
物見台として使っていたのだろうが明確な遺構はない。
主郭部の東側にも遺構は有りそうであるが、余りの凄まじい藪に侵入は出来なかった。
車までも戻ると、その東側に台地が広がっているので館があってもおかしくはない。
しかし、風がきつい場所であるため、居館は山の南側の霊園があった付近にあったのではないかと思われる。
一応の城郭のパーツは揃っているが、遺構の規模は小さく、インパクトに欠ける感じの城であった。
城のある山の北側は崖であり、北西側から
登る道は切通しになっている。ここも城域で
あろう。カーブの先に車が置ける。
車を置いて南側の山に登って行くと墓地が
ある。その西側は写真のように堀切になっ
ている。
主郭部西側の虎口。土塁が前面にあり、そ
の先の尾根から竪堀が斜面を下る。は
主郭部南の腰曲輪はしっかりしている。 主郭部南側の腰曲輪南端から見上げた本
郭の櫓台。
城のある山の北東側に平坦な台地がある。
下からの高さは20m。館跡だろうか?

ホームに戻る。